石井ゆかりの幸福論【1】「自分が自分である」ということ。

「幸せって何だろう?」──その答えは人の数だけあるはずです。石井ゆかりさんが綴る『幸福論』で、日常の体験や思いを手がかりに、幸せのかたちをいっしょに探していきましょう。
※このコラムは、2019年〜2021年にかけて執筆された連載に加筆・修正を加えてお届けしています。
目次
はじめに
こんにちは、石井ゆかりです。
このたび石井ゆかりの『幸福論』というテーマで、コラムをお願いできませんか」というご依頼を頂きました。
「幸せ」は人によって千差万別で、「これが幸せだ!」などという決定版の幸せの形など、この世には存在しないだろうと思います。ゆえに、この稿はあくまで、私の個人的な経験に基づく「幸福観」でしかありません。
このコラムをきっかけに、みなさんが「確かにそういうこともあるかも」「私はそうは思わない」というふうに、ご自身の「幸福論」を見つけて頂けたなら、とても嬉しいです。
私は普段、主に星占いの記事を書いています。そこで、星占いの「12ハウス」になぞらえ、12章のコラムとして構成してみました。
12ハウスとは、12星座からなるホロスコープの盤面を、時間と場所を元に12の「ハウス」に区切る、という考え方です。ハウスは「室」とも訳され、それぞれのエリアにひとつひとつ、意味があります。会社に経理や営業などの「部署」があるのと同じイメージです。ひとりひとりのホロスコープに12の部署があり、それぞれに担当分野が振り分けられています。
12ハウスの管轄する内容は、以下のとおりです。

「自分が自分である」ということ。
「自分」。
これは、本当に難しいテーマです。でも、星占いはとにもかくにも「自分」から始めようとするのです。当たり前のようで、ものすごく難しいことだな、と思います。
私たちは生まれた時から「自分」というものを引き受けて生きています。そして、自分と人とを比べたり、戦って勝利したがったり、注目してもらいたがったり、愛されたがったりします。
たとえば、友だちが誰かに褒められても、自分が褒められたときほどには嬉しくありません。ごく幼いうちから、自分と他人の区別がついているのです。
私自身の話をしますと、私は幼い頃、まわりの子と比べて、かなり肥っていました。そして、髪の毛は天然パーマで、転校生だったため、言葉遣いも周囲と違っていました。これらの属性は私にとって、非常に悲しいものでした。「自分は醜い」という劣等感の塊でしたし、キャラクターも多分、浮いていましたし、先生も私のことは、良く思っていなかったようです。
ただ「周囲と違う自分」が当たり前だったおかげで、よくも悪くも「人と違うことをする」のが、あまり怖くありませんでした。
でも、世の中には「人と違っていること」を怖れる人がたくさんいます。「幸福は十人十色、10人いれば10種類の幸福がある」と考えると、これは結構辛いことです。「自分の幸福は、人のそれとは違うのだ」ということをまず、前提としなければ、自分の幸福を探し始めることができないからです。

というのも「自分の幸福ではないもの」にぶつかっては試し、試しては振り捨てていく、という作業を重ねていかなければ、「自分の幸福」にたどり着かないからです。
私自身、若い頃は本当に、夢をとっかえひっかえしながら七転八倒していました。今にして思えば「なぜ、あんなに向いていないことばかりに憧れて必死に取り組んだのだろう?」と不思議な気持ちにしかならないのですが、なにかが「自分には向いていない」と分かるには、まずそれを試してみて、何度も失敗して、いやーな思いをしたあげく、挫折しなければならないのです(!)。
いえ、普通はそこまで行かなくても「これは、ダメだな」とわかるのかもしれませんが、私は往生際の悪いタチで、なかなか、わかりませんでした。転職を繰り返した20代に、それが表れています。
自分がどんな人間なのか、自分とは誰なのか。
すでにいい年になった私ですが、まだよくわかりません。
先日も「アイデンティティ」をテーマに、noteで1万字近くも書いたくらいです。しかし1万字書いても、よくわかりませんでした(!)。
ただ、私は上記の通り「人と違ったことをする」のは怖くありませんでしたが、若いときに「他人に好かれたいため」「人に怒られないようにするため」「人の機嫌を取るため」に、色々な行動するクセがありました。たとえば、プレゼントを贈ったり、人の世話を焼いたりするようなことです。
今にして思えば誰にも必要とされていない無駄な努力だったのですが、当時は人の気持ちを引こうとして、必死に健気っぽい努力をしていたのです。
アラサー頃に、そのムダなクセを自覚し、全てやめました。
この「実は誰にも喜ばれていない、ムダなクセ」をやめるとき、私は「自分は、もっと自分になろう」と強く思った記憶があります。たぶん、それまでは「人の好意」というもので「自分を作ろう」としていたのかもしれません。

「私は私自身として生きたことがなかったかもしれない」「私は私に『なった』ことがなかったかもしれない」という疑いが黒雲のようにわき起こりました。
「ひとのため」にしていたことをやめたとき、長いこと自分を縛っていたものを断ち切るような、強烈な衝撃を内側から感じた記憶があります。喜びとも悲しみとも言えないような、色々な思いが入り交じった衝撃でした。
今の私は、他人から見れば「幸福」とは言い難い状況かもしれませんが、かなりワガママに生きている自覚があります。そして、それが一番いい、と思っています。このことは、幸福なんだろうな、と思います。
これまでいろんな所に頭をぶつけるような生き方をしてきましたが、頭をぶつけたお陰で、できることやできないこと、痛いところや弱いところなど、「自分」のアウトラインがぼんやりと分かった部分もあったのかな、と思います。
(2019年2月)

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